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あたたかな光と相思相愛-永遠の旅へいざなう虹粒子の流れ

あたたかな光と相思相愛-永遠の旅へいざなう虹粒子の流れ

なぜ人には愛が必要なのか



「愛は元気ですか」

随分前に、そんなタイトルの歌がありました。記憶違いでなければ、谷村有美さんの歌。
どんな歌なのか思い出せません。というより、実際にその歌を聴いた記憶がなかったりもします。
でも、とても素敵なタイトルだなあと思ったことは今でもよく憶えています。

自分の心をあたためてあげるって、とても大切なことですよ。

なにか辛いことがあっても、落ち込むことがあっても、心を冷えたままにしてはいけません。
自分の心の中の愛は元気だろうか?と、自分自身をいたわってあげるということって、とても大事なことです。

だって、結局のところ、自分を大事にしてあげられるのは、最終的には、自分だから。

自分の心の中の愛が元気かどうか、そこに瞳を向かわせることができる人には、他者の心を気遣う、あたたかな天使の眼差しが宿っています。
愛は、それを内に大事にしている人にしか、他の人にも、愛を運ぶことは出来ないのかもしれません。
大いなる天からのギフトである愛を、日々、大切にしましょう。



美しい羽根









そんな想いをこめて、このフリー・ページでは、「どうして人には愛が必要なのか?」に関するエトセトラな文章を紡いでみたいと思います。









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日本の今に想うこと    2009.07.07日記
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小さな子供は、どんな時に不安を感じるでしょう?

たとえば、小さな子供が街の中で親の手から離れてしまい迷子になっている状況があるとします。
その時、その子が不安で泣きそうになるのは、親の姿が見えずに、どうしたらいいか分からないからです。
しかし迷子になった子供も、親の姿を発見したら、不安から解き放たれるでしょう。
そして、その子の心に宿った不安や悲しい感情は静かに消え、自然と微笑みに変わってゆくはず。
こうした場合、小さな子供にとって親の存在というのは、地球にとっての太陽のようなもの。それから引き離されたら自分の中のエネルギーだって行き場を失うのです。
小さな子供というのは、親との一体化を確認することで内なるエネルギーのバランスを図っているということが出来るのだと思います。


思春期の少年少女は、どんな時に不安を感じるのでしょう?

受験という言葉が重く心にのしかかる季節を生きる彼らの最大の不安材料は、やはり進学という言葉が象徴するように、近い将来に対する不安でしょう。
あるいは学校によっては、イジメや学級崩壊といった実に現代的な不安要素が充満しているところもあるでしょう。そういう環境に身を置いている生徒であれば、受験や進学に加え、相当のストレスに苛まれるはず。下手したら勉強どころではなくなるかもしれません。
そんな風に幾多の不安を抱えながら日々学問や部活動に励む彼らは、一体どんな時に己の内に巣食う不安を解消出来るのでしょうか?。
僕自身の経験からいえば(個人的な話でしかないかもしれませんが)、親や最も身近な信頼出来る先生やクラスメートとの会話を通じて、内なる不安から開放されたように思い出します。
親や先生や友人といった最も身近で信頼の置ける他者たちとのつながりの中で、なんとか不安に押し潰されずに済んだともいえます。
子供と大人の間を季節を生きる者にとって、心の中に勇気が生まれて、少しずつ前に進めるのは、こういう関係性があってこそ、なのだと思います。


大人は、どんな時に不安を感じるのでしょう?

先行きが見え難い状況の中に身を置いている時、小さな子供や思春期の少年少女と同様に、やはり多くの大人達だって不安に駆られるはずです。
たとえば会社をリストラされて再就職もままならない時。
たとえば自分の恋人との関係が上手くいっていない時。
たとえば結婚したパートナーとの間に不協和音が生じ、家庭崩壊に至ろうとしている時。
たとえば巷で物騒な事件などが多発していて、日本の未来を案じながら動揺を禁じえない時。
たとえば自分が高齢者になった時に果たして年金はもらえるのだろうか?もらえない確立の方が圧倒的に高いと考えた時。
そのように、「たとえば~~の時」というのは、大人の世界だと、それはもう星の数といってもよく、小さな子供や思春期を生きる少年少女が抱える不安材料などとは比較出来ぬほどに多種多様なバリエーションで溢れています。
そして、その解決策だって全てが一筋縄とはいかないでしょう。
では、そんな時、大人は一体どうすれば良いのか?
小さな子供と違って、親の姿を探せば、それがイコール不安材料を消すことにはなりません。
大人の心に巣食う不安は、大人同士で解決のヒントを模索し、最終的には自分で答えを出すしかないのです。







上記したような事柄を長々と述べたことには、ワケがあります。

人生に不安材料というのは、年齢に関係なく、誰だって持っている。小さな子供でも、思春期の少年少女でも、大人達でも、皆、内に抱えている。
不安という感情を誰もが年齢に関係なく持っているとして、それと同じように、不安を解消する最も大きな術も、また年齢に関係ない。

つまり、こういうことです。
「他者との心のつながり」の中で、人は自分の心の中に巣食う ”不安” という感情を鎮め、勇気の火を内に灯すことが出来るということ。
このような問題の打開策というのは、年齢に関係なく、また性別にも関係なく、きっと誰にとっても普遍的なこの世の真実といえるだろうと思います。



お金が沢山あっても自ら命を絶つ裕福な人というのは少なくありません。
また、収入があまり高くないにもかかわらず、小さな家の中で家族つつましく毎日を笑顔で生きている人々もいる。
この差は一体どこから生まれるのでしょう?

職場のストレスから家に引きこもりになってしまう若い人達が現代、少なくないそうです。
また一方で、
「先の見えない時代」「100年に一度の不景気」そんな風に多くの人々が不安に駆られている現在日本において、しかし着実に業績をあげている元気なビジネスマンもいる。
この差は一体どこから生まれるのでしょう?

何となく思うのです。
現在の日本が如何に不安材料でいっぱいだとしても、人と人との間のつながりから心を満たされたり励まされたりする習慣を大事にしている人というのは、ピンチに強いのでは?
もし、日本中の多くの人々がそうした習慣を大事にし、社会自体がそのようであり続ける限り、人々の暮らしの中から笑顔は消えることはないのではないだろうか?、と。
それが、枯れることのない泉のように、幸福感を次の世代に受け継ぐということなのではないだろうか、と。




現在の日本には大人のウツばかりでなく、子供の世界にまでウツの症状が蔓延しつつあるといいます。
まったくもって、ひどい話です。
ここまでくると文明の末期症状なのではないかとさえ思ってしまいますが(それは言いすぎかも?)、それほど酷い世の中だと思います。

しかし、現代日本に蔓延る酷い報道の数々を毎日のように目で追えば、このような日本の状況というのは、実は当然の成り行きのようにも思えてくるのです。
大人の世界が、人と人との心のつながりの大切さを蔑ろにし続けてきたことの証、その集積の実像として、現在に報道を駆け巡っている物騒な事件の数々というのは、大人達の前に正確に姿を現していると考えるからです。




















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なぜ人には愛が必要なのか   2009.7.20日記
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映画の世界において、恋愛映画やミュージカル映画というのは、とても人気がある。

それらの映画における、理屈ぬきに心が躍るシーンの連続の中に、人は何を求めるのでしょう?

たぶん、それは上質な夢やロマンス。

きっと人は、日常生活の中で心に溜まった垢を、それらの映画に感動することで洗い落とす。だから、人は良質な恋愛映画やミュージカル映画に魅了されるのだと思います。

こういうことって映画の世界に限らず、小説や詩あるいは音楽などにも同じようなことがいえるでしょう。

素晴らしい物語というのは、それが映画であれ本であれ音楽であれ、人の心を洗いキレイにしてくれます。




親が小さな子供に絵本を読んで聞かせてあげることにも、上にあげたようなことは同様にいえます。

絵本の中の物語を読み聞かせることによって、親は子に、生きる上でとても大切なことを教えているのです。

小さな子供を膝の上にのせながら、親が子に絵本を読んで聞かせてあげるということで教えることが出来るのは、愛情の大切さ。

あたたかな体温を伴い親の声から伝わってくる短い物語の中から、小さな子は果てしなく大きな旅へいざなわれます。

そして、その物語にこめられた作家の願いやメッセージを通じて、子は親の手の中で、幼いなりにも愛を学んでゆく。




だけど、大人になると人は、いつしか、こうした人と人との間に生まれる、あたたかなつながりの大切さを忘れがちになってしまうものです。

そんな風に、とても大切な何かを忘れそうになった時にはどうすればよいのでしょう?。

病は気から、といいますよね。

最近、梅雨の影響だろうか何だか心が不安定だなあ、とか、肩がとても凝るなあ、そんな風に感じることがあったなら、手っ取り早い方法として、絵本を読むといいですよ。

気の部分に滞っていた何かが、澱んでいた何かが、中和され、さらさらとなってゆくのが自分でわかるはずです。

というのも僕自身、書店などで偶然に絵本を手にとって、それを読み始めたことで、肩の力が不思議なほどに抜けて、体が軽くなるようなことって沢山あるからなんです。


心が疲れたら、絵本を読むに限ります。

絵本には、人と人との間に生まれる、あたたかな愛情の結晶が、最良の温度でこめられているからです。

そうした愛情の結晶・最良の温度が、絵本を読む者の心に、あたたかさを運び、その人の心の中のほころびを、そっと修正してくれる。

このような上質な愛情の結晶としての、上質な映画や本や音楽、時に絵本といった諸々の芸術作品に触れ続ける限り、人は自分の心をキレイに磨き続けることができます。

そして、いつまでも、そこに触れる人の心の中に、愛は枯れることなく流れ続けてゆきます。






どうして人には愛が必要なのでしょう?

時代性に関係なく、命が未来に運ばれるために必要で重要な普遍的テーマに深くつながっているからです。

おそらく何千年も前の時代に生きていた人たちも、それを考えていたでしょうし、何千年先に生きる人たちも同様に、同じことを考え続けるはず。


そもそも、愛って、何だと思いますか?

正直いって、僕にもよく分かりません。
しかし、ただ、愛とは理屈ではないことだけは確かだと思います。

きっと、愛とは、プラスの方向に作用する(もしくは作用させる)命のエネルギーのことです。

人にとって、愛というのは、とてもとても大事なものです。
枯れることのない泉のように、永遠へ向かい流れ続ける命のメロディが神々しく奏でる至上のエネルギー。
それがないと個体である人間一人一人ばかりでなく、社会全体が健やかさを失うでしょう。

よく、体を温めれば健康になるって言いますよね。
それは、心だって同じこと。

冷え込んだ心を温め回復へ向かわせ、人に笑顔を運び、永遠の命の流れに近づけさせてくれるもの、それが、愛なのです。




白鳥の羽根のような、美しい桜の花















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大らかな愛とやすらぎ   2009.8.10日記
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空を見上げれば毎日のように雨雲が立ち込め、新聞やテレビの報道からは暗いニュースが沢山目に入ってくると、気分的に落ち込むこともあります。
誰だってそうでしょう。
これは僕に限った話ではないと思います。

でも、そんな時に、ふと、心が救われることがあるのです。
偶然に目の前に姿を現した存在によって。

何だと思いますか?

それは、書店や街角で出逢った見知らぬ小さな子供の表情に宿った満面の笑み
たまたま偶然に目の前に現れたにすぎない小さな命、その命に宿った無垢な笑顔・・・まるで魔法のようにこちらの心に深く浸透してくる、天使のような笑み。
すると不思議なことに、それまで落ち込んでいた気分が空気にとけてゆくみたいに、すうっと消えてしまうのです。

「目の前の小さな他者の顔に浮かんだ笑顔の眩しさに比べたら、君の抱えている悩みなんて如何に小さくてチッポケなものなのだよ」

もし、神様がいるとしたら、きっと諭すように僕に、そう呟くことでしょう。
そんな風に、なにか大事なことを、忘れかけていた大切なことを自然と悟らされる瞬間、そうした瞬間が僕はとても好きです。
至福の瞬間といっても決して過言ではありません。



書店や街角で偶然に出逢うことがある、見知らぬ小さな子供の話に戻しましょう。
殆どの場合、満面の笑みを顔に浮かべた小さな子供のそばには、母親か父親がいます。
子供が心から楽しそうに笑顔でいる場合、ひとりでそうしていることはまずありえない。
必ず、近くに自分の親の姿があることを知っているから、彼らは安心し、心から穏やかな笑顔でいれるのです。

気分的に沈んでいる時、上に書いたように見知らぬ小さな子供の笑顔に出逢ったことによって、こちらの心に巣食っていた雨雲が消えてゆくのを感じた時、
僕は感謝をこめて、心の中で、こう呟くのです。

「見知らぬ小さな子供、そして、この子の親・・・ありがとう」

そう心の中で感謝しながら、目の前の小さな子供に向かって、にらめっこしたりして笑わせてあげると、大抵の場合、その子の親も笑顔になってくれます。
気がつくと、その場には魔法のようにあたたかな空気が流れてゆきます。

この場合、魔法の根源は ”笑顔” です。
小さな笑顔が、その場に魔法のような空気を運んだといえるでしょう。



さて、一体どうして僕は、目の前にいる見知らぬ小さな子供にだけ感謝せず、その子の親に対してまで感謝の想いを届けたくなるのでしょうか?。

理由は、いたってシンプルです。
気分的に落ち込んでいた心に不思議な光を届けてくれた笑顔の主は勿論、小さな子供であることは確かではあります。
でも、その笑顔は、小さな子供ひとりのものではないからです。

その眩しいばかりの笑顔、愛にあふれた無垢な笑顔を作り出しているのは、小さな子供と、その親・・・その二つの存在が共に共鳴しあってこそ生まれます。

小さな子供と、その親との間にあるもの、それこそが無条件の愛の姿であり、限りない力を生み出す根源であり、地球上のみならずきっと宇宙全体に流れるありとあらゆるもの全てをつなげているエネルギーの根源。

きっと、それこそ究極のパワー。
きっと、この世で最も美しく崇高なエネルギー。あたかもモーツアルトの旋律のように永遠性を伴いながら未来へ流れ続ける光。

そんな魔法のような瞬間に出逢えるということは、実はものすごいことなのだと思います。

だから僕は、見知らぬ相手であっても、そんなことには関係なく、
小さな子供とその親の、両方、に感謝するのです。





花







天候にも社会情勢にも左右されることなく、いつだって人の心に笑顔とやすらぎを運ぶものの存在・・・大らかな愛。
それ以上に、大事なものなんて、この世にはきっと、ない。

お金?仕事?社会的地位?子供のお受験?
そっちの方が圧倒的に大事という人も、少なくはないかもしれません。
お金がなかったり仕事がなかったりしたら、笑顔どころではないですから、当然といえば当然のことでしょう。
とはいえ、
本当に大事なものを蔑ろにし置き去りにしてしまっては、そんなものはみな砂の城といっしょですよ。
せっかく築きあげても、いつか必ず足元から崩壊します。

無条件の信頼関係の上に成り立つ、大らかな愛、あたたかな光。
人はそれを、普段の生活の中で、何かの拍子に忘れてしまったり失いかけたりしているだけ。
現在の不安定な社会情勢、多くの人々が心をなくしかけている時代であれば、尚更のことでしょう。

しかし、だからこそ忘れてはいけないのだと思います。
全ての人と人とをつなぐ、至福の如きあたたかな光は、いつだって本当は皆の心の中にあるということを。

そうした光を自分自身が心の奥に確かに持っていることを一人一人が思い出し、
多くの人がそれを互いに共振し、分かち合うことで、必ず社会は良くなってゆくと信じています。













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永遠につづく愛
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「愛」という言葉を思い浮かべる時、あなたの心に浮かんでくるものは何ですか?
たとえば、それが映画作品だとすれば、それは一体どんな映画ですか?

翻って僕自身に同じ問いを向けた場合、心を過ぎる映画があるとすれな、その中のひとつは次の作品です。


『ファウンテン 永遠につづく愛』
http://item.rakuten.co.jp/book/5518126/


これは単なる恋愛映画ではありません。
上のタイトルだけ目にしたら、きっと多くの人が美しいロマンスをイメージすることでしょう。お洒落な純愛映画のように想う方もいるかもしれません。

でも、そのような淡い期待は、映画本編がはじまった瞬間、一瞬にして裏切られます。
キューブリックの「2001年宇宙の旅」を遥かに超える、半端じゃなく深遠な作品・・・これは殆ど ”トリップ・ムービー” 。目も眩むような実に壮大な、時空を超えた男女の愛と命の真実に纏わる物語です。

というわけで、2009年の1月に、この映画について綴った過去日記を今一度、以下に復刻します。




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ファウンテン 永遠につづく愛
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愛が永遠につづくなんて、あるのでしょうか?
「ない」
多くの人は、そう考えると思います。

では、なぜ、そう考えるのでしょうか。
それはきっと、自分自身の経験であるとか、知人たちの経験を眺めていてそう感じるとか、あるいは「愛は長くは続かない」そんな科学的な根拠めいた論説を聞いたり読んだりしたことがあるからとか、
多くが、そうした理由によるものだと思います。

僕自身、高校生くらいの年齢までは、普通に信じていたんです。
---愛って、いつまでも変わらない---ものである、と。
離婚したりする大人達って、おかしいんじゃないかな、と。

でも、そんな考えは、自分自身が大人の世界に入り込んだ後に、
ある日、ちょっとした出来事を通して、いともたやすく崩壊するものです。
(こんなはずじゃない・・・・・)
おそらく、殆どの人にとって、そうした想いを抱いたことの一度や二度はあるかと思います。

愛が永遠につづくなんて、あるはずがないのです。





果たして、本当に、そうでしょうか?
あなたは、そのように、確信を持って言い切れますか?



いま僕は、これまでの自分自身が考えてきた「愛に関するエトセトラ」に自信が持てなくなってきています。
自分が思ってきたことなんて、実は、ただの浅はかなものでしかなかったのかもしれない・・・、
そうした想いに、少しずつ、いざなわれはじめています。

次に紹介する『ファウンテン 永遠につづく愛』という名の、不思議な、そして美しく神秘的な映画を鑑賞して、そう想わずにはいられなくなりました。


ファウンテン 永遠につづく愛 ☆

『ファウンテン 永遠につづく愛』
http://item.rakuten.co.jp/book/5518126/

【ストーリー】
難病に冒された最愛の妻の命を救いたい……その思いだけを胸に、特効薬の研究に没頭する医師のトミー。妻のイジーは運命を受け入れ、残されたわずかな時間をトミーと過ごし、彼の心に自分が生きた証を刻みつけたいと願う。だが、妻の命が尽きる前に新薬を完成させようと焦るトミーには、その思いが届かない。そんな彼に、イジーが渡した最後の贈り物。それはトミーの前世を思わせるスペインの高潔な騎士が女王の命を受け、不死を約束すると信じられている伝説の<ファウンテン(生命の泉)>を探す旅に出かけていく、壮大な物語だった……。

(楽天市場解説文章より転載)







多分、いままで僕が ”愛” と考えてきた事柄は、
きっと、愛なんかではなくて、ただの ”欲” でしかなかったのではないだろうか。

愛というのは、本当は、短期間のうちに消えてしまうのではなくて、永遠につづくものなのではないだろうか?
それは宇宙の中で、時空を超えて流れつづける人智を超えた光のようなものなのではないだろうか?


この映画を鑑賞して、そんな風なことを考えてしまいました。



『ファウンテン 永遠につづく愛』というタイトルの外国映画。
普通のお洒落な恋愛映画なのだろうと想像しながら観始めたのですが、期待に反して、これはいわゆるファッショナブルな ”ラブストーリー” 的な映画ではありませんでした。

おそらく、ヨーガなどをやっている方、あるいはヨーガ等を通じて深遠なこの世の真実を探求したいと願っている人達向けの作品のように感じます。

観る人によっては、この映画は突拍子のないトリップ・ムービーのように映るかもしれない。
あまりにも幻想的で、夢幻の如きシーンの連続だからです。
人が普通に考える、お洒落な恋愛映画なんかでは決してありません。
ある意味、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を彷彿とさせる深遠さ、いや、あれ以上の深遠さを心に運ぶトリップ・ムービーであると言っても過言ではないでしょう。


しかし、この映画は、トリップ・ムービーと呼ぶには、
あまりにも美しい。

まるで、永遠に燃え続ける暖炉の炎のような、そんな崇高な美しさがあります。





ファウンテン 永遠につづく愛

http://item.rakuten.co.jp/book/5518126/










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愛さないの 愛せないの         2009.07.22日記
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さよならしようと
手をあげたら
林檎の木の枝にさわった

枝を手折ってやり場なく
その花の白さを見つめているうちに

きみの汽車は
もういない・・・・・



(寺山修司著『愛さないの愛せないの』より)





僕には、”愛” というのが一体どんなものなのか、まだよくわからない。
正直いって、まだよくわからない、というよりも、全然わからないといった方が正確でしょう。

でも、そんな僕にとっても、わかることがあります。
それは、
愛というのは、心をあたため、穏やかな気持ちへいざなうだけのものではないということ。

もっといってしまえば、きっと愛というのは、あたたかさ以上に、切なさや、やりきれなさといった、そんな感情、こらえきれないよな強い感情の上に成り立っているのかもしれない。

たとえば、あなたが海へでかけたとします。
海から吹いてくる風は、どんな匂いがしますか?
蜜のように甘い匂いですか?

そんなことはないでしょう。
海から吹いてくる風は、涙のように、しょっぱいはず。

でも、それが時に甘く感じられるのは、そこに人が愛を想うからです。
命の根源としての海に想いを馳せながら、永遠にただよう波の音に身をゆだね、穏やさへ心がいざなわれるからだと思います。





星屑の海











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美しい夢、愛の夢          2009.07.29日記
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「愛」などというキレイな言葉で日記を書いていると、もしかしたら、こんな風なことを思う方もいるかもしれません。
「一体あなたに ”愛” の何が理解できているというのですか?」と。

もし誰かから、そんな風なことを言われたとしても、これは仕方がないと思います。
僕自身、”愛” を他者に声を大にして語ることが出来るほどに人間が出来ているわけではないのですから。
それに加えて、愛などというキレイな言葉が喚起させるような美しい人間でも何でもありません。
もっと言ってしまえば、一介のガサツな男にしか過ぎない。

なので、もし仮に、
「ルカさんはブログを通じて、愛の伝道師になろうとしているのだろうか?」
などと推測している方がいましたら、「それは御門違いです」としかいいようがないのです。



それでは、愛をテーマに連日に渡って日記を綴っていることの意味は何?と聞かれたなら、僕は次のように答えるしかないでしょう。

「よく、わからないです」

本当、それに尽きるんですよ。



そもそものが、僕が楽天でブログをスタートしたのも、自分ではよく分からないなりに、愛を探す旅をスタートしたということが言えるのですから、よく分からないのは何も今に始まったことではないのです。

ブログをスタートして一日目の日記は、イタリアのルッカという街で出逢ったマリア像に関する日記文章でした。
そして、それに続いた日記は、「愛って何だろう?」とストレートに綴った文章でした。
こんな感じの流れが現在にまで変わることなく続き、早くも5年になろうとしています。
そして、今もって、僕には、愛がよくわからない。これが正直なところです。

では、よくわからないまま、この5年で如何なる収穫もなかったのかといえば、
「そんなことはありません」
と答えるでしょう。

とても多くのことを、学んだような気がします。
5年という短い歳月に比すれば、その時間の流れで見えてきた収穫は決して小さくはないのです。

にもかかわらず、現在でも、愛というものが僕にとって「よく分からない」ものである理由はを僕なりに説明すれば、
きっと愛というのは、宇宙のように広く深遠で、だけどシンプルで単純で、且つ、とらえどころのないほどに永遠性の流れとつながっているものであり、人間というちっぽけな存在にとって、そうした流れの全体像が理解出来るほどにチープなものではないだろう、とうことくらいなもの。
だいたいが、人間が、自分達が知っていると思っている宇宙の中の、ほんの一部、いや、それにも満たないごく僅かな、全体からすれば約2~3パーセント程度のことしか解明出来ていない人類が、地球に宇宙に流れる愛のファンタジーの真理について分かりきったことを語れるはずもないわけですよ。

きっと、人が持ち得る長い人生の時間のすべてを費やしても、分からないのが、愛なのではないだろうか?
そんな気がします。

だけど、分からないなりに、愛とは何だろう?心の平穏って何だろう?幸せって何だろう?と想いながら生きてゆくことは、
大切なことだと思います。すごくすごく大切なことです。
なぜなら、自分が探している、想っている方向へ、必ず少しずつ、自分が近づいてゆくからです。




ブルー・フェアリーのような花



















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心がキレイな人は強い         2009.07.24日記
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雨が続いていて少し憂鬱と思っていた矢先、とても感動するお話に出逢いました。
全盲のピアニストのお話です。

それは、辻井伸行さんという若者が某国際ピアノ・コンクールで優勝した際のお話でした。

「THE21」という雑誌を仕事後に立ち寄った書店で立ち読みしていて、そのお話を知ったんです。
その記事を読みながら、あまりにも心を打たれてしまい、涙が出そうでした。

コンクールで優勝した後に行われた記者会見で、一人の記者が無神経と思える質問を辻井さんにしたそうです。
それは、目が見えない一人の若者に対して、あまりにも心無い質問であると思えるほどに無神経で粗暴な質問であったといいます。
「もし、一日だけ目が見える日があったら、一番見たいのは何ですか?」
一人の記者が、そんな質問を投げかけたというのです。
しかし、辻井さんは笑顔で、その記者からの質問に答えたそうです。

以下に、その記者会見における辻井さんの受け答えを紹介した記事内容からの抜粋を太文字で記しましょう。


「お母さんとお父さんの顔がみてみたいです。友達の顔や星、海や花火もみてみたい。でも、いまは、心の目でみているので十分に満足しています。」



この、辻井さんの受け答えを読み、思わず目頭が熱くなりました。
(なんて、ピュアな心を持った青年なんだ!)と。


THE21という雑誌の記事に掲載された記事文章には、他に、このようなエピソードが記されていました。
辻井さんのお母さんは、辻井さんが生まれた後に、自分の子供が全盲で生まれてきたということを知り、あまりのショックで悩み、自分の子の未来を案じるあまり、子供と一緒に自分も死のうと考えたこともあったといいます。

その後に、どのように試練を乗り越えながら、この親子が愛情を育み進んできたのかは、その詳細については記事中で記されてはいなかったのですが、相当の苦労の連続だったことと想像します。
兎にも角にも、幾多の試練の末に勝ち取った国際コンクールにおける優勝という、日本人初の快挙を成し遂げた奇跡の物語には、胸が熱くならずにはいられませんでした。
















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